札幌スピリチュアリスト・ブログ

スピリチュアリストとして日々感じたことや、考えたこと、書籍の紹介などを徒然なるままに記します。

渡部昇一氏の『魂はあるか?』~「死ぬこと」についての考察~を読んで〈1〉

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人間とはどういう存在なのか

 週末を利用して、日本の代表的知識人として「知的生活の方法」等の数多くの著者として知られる渡部昇一氏が2017年の逝去される前にご子息からのロングインタビューを基にして映像制作したものを本にまとめた『魂はあるか?』~「死ぬこと」についての考察~を拝読しました。これまでの渡部氏のどの著書とも異なる、神の存在や、死後の世界について問う深遠な内容となっています。渡部氏に影響を与えたフレーズ・パスカルの『パンセ』やアレクシス・カレルの『人間この未知なるもの』、そして進化論で有名なチャールズ・ダーウィンの『種の起源』に多大な影響を与えたアルフレッド・ラッセル・ウオレス(後年スピリチュアリストとなる)の著作やその足跡を通して、渡部氏自身が死後の世界とどう向き合い、カトリックの信仰とはまた別の意味でスピリチュアリズムの精神に共鳴して確信を持つようになったのか、その思考の過程が丁寧に書かれています。

 渡部氏は真の心の安らぎを得るには、「人間とはどういう存在なのか」という、人間の存在そのものを問わねばならないと述べます。人間の存在を問うとき、「魂の存在」「死後の世界」「宗教」の3つの原点について問わざるを得ないといいます。そしてパスカルやウオレス、アレクシル・カレルなどの古今の偉人の生き方や言葉から、そして渡部氏の言語学者としての見地から数十年に及ぶ思索を重ねた中でその問いに対する答えを導き出しました。それは、「魂はある」「死後の世界は存在する」「信仰は弱い人間の心の支えになる」というものでした。氏はご自身の80有余年の体験と、その間に学んできたことの中から、ご自身が3つの原点の内容を納得して心の安らぎや、魂の安らぎを得るに至ったというのです。今日、世界は新型コロナウィルスの脅威に晒されて、自分自身も含めて身近な人々が、死と隣合わせであると感じる時代を生きています。2011年の東日本大震災のような巨大災害に遭遇した時もそうですが、これまで当たり前であった日常生活が非日常となり、生死の危機にさらされた時、それまでは遠いことのように思えた死後の世界の問題が、大きなテーマとなってまいります。死は何の前触れもなく突然襲ってくることを知った時、人々は自らの死について深く考えざるを得なくなります。そして死について考えることは、魂の存在について考えることにつながるとも、渡部氏は述べています。
パスカルの賭けの精神
 
渡部氏は、信仰へと至るその思考遍歴の中でパスカルの『パンセ』に出会います。パスカルはフランスの哲学者、実験物理学者であり、数学者、思想家、そして宗教家でもあった天才でした。『パンセ』の中でパスカルは、「賭けの精神」の必要性について述べています。「神は、あるいは死後の世界はあるか、ないか」と問いかけられたとき、すでに「あるかないか」を決める「船に乗り込んでしまっている」とパスカルは主張します。そして「あるかないか」選ばなければならないのなら、どちらのほうが私たちにとって利益が多いかを考えてみようというのです。「神は存在しない、死後の世界はない」のほうに賭けて死んでみて、神も死後の世界もないとしたらそれだけのことです。しかし、死んでみて神も死後の世界もあったとしたら、賭けに負けたことになり、その時は大変な後悔が待っています。

 一方、「神も死後の世界もある」に賭けて勝負に勝ったら、私たちはまるもうけするといいます。もし負けて神と死後の世界がなかったとしても、何の損もないのだといいます。つまり神の存在や霊魂の不滅、死後の世界への信仰を持つことによって、私たちは失うものは何もなく、それどころか何の信仰も持たずに生きるということは死の恐怖にとらわれて精神的な充足感のない人生を送ることになります。そうであれば、神の存在を信じ、魂の不滅を信じることによって、充実した人生を送ることができるようになったほうが良いのは自明の理であるといいます。多くの哲学者や賢人の努力にもかかわらず、理性や論理に頼っても結局神の存在や霊魂の不滅は最終的に証明はできません。それは、こうした問題が自然科学や数学の世界とは次元の異なる問題だからです。パスカルは神は存在する、霊魂は不滅である、死後の世界も存在するというほうに賭けるほうがリスクが少ないと説いているといいます。

パスカルの説いた「繊細なる精神」の重要性

 パスカルは科学者として、論理的精神や科学的な精神の重要性を誰よりも知っていました。それに加えて「繊細なる精神」があるとと鋭く指摘します。人間には、複雑な事象を論証に頼らず、直観的・全体的に把握する柔軟性に富む認識能力があると指摘します。これが「直観的な精神」ともいえます。近代が始まる前のヨーロッパは大雑把にみると神や霊魂を信じることは当たり前のことでした。トマス・アキナスの『神学大全』などの中世の哲学がそれを支えていました。そこにデカルトが登場します。デカルトの「われ思う、故に我あり」という言葉は、「身体」とは区別された「精神」の存在を指し示しているといいます。デカルト物心二元論を説き、数学の真理は神に由来すると確信し、その確信はニュートンに受け継がれて西欧に自然科学が発達し、その後幾何学的精神ばかりが一人歩きして、科学一辺倒の近代社会になったとしています。一方同時代に生きたパスカルは、こうしたデカルトの考えに人間らしさのない危険な思想を感じ取ったと渡部氏は指摘します。パスカルは人間精神には、「幾何学的な精神」も重要だが、それ以上に「繊細なる精神」も重要で、片一方にこだわると知らず知らずに落とし穴に嵌まることを直感的に知っていたのだと述べます。
 今日、科学技術万能主義の影響は至るところに見られます。確かに物質文明の恩恵を私たちは日々実感しています。先回のブログでも紹介させていただきましたが、様々な社会課題の解決に対して科学技術の果たす役割が大きいことは誰もが認めています。しかし、一方でもう少し、視野を広げてみれば特に産業革命以後、人々は大量生産、大量消費によって科学技術の恩恵をこうむると同時にその陰の部分として地球環境全体に取り返しのつかない変化をもたらすことによって、気候変動や生物多様性の喪失など私たちは科学技術万能主義では解決できない、文明の転換期に生きていることも事実です。東日本大震災では、津波の被害だけでなく物質文明の象徴ともいえる原子力発電所に事故が起き、今なお福島原発事故の影響は日本の未来に深刻な影響を与えています。

人間は考える葦である

 パスカルは『パンセ』の中で、人間は考える葦であるという言葉とともに「だから、われわれの尊厳のすべては、考えることの中にある。・・・だから考えることから努めよう。ここに道徳の原理がある」とも述べています。科学万能主義によって、人間は自然を思い通りにしようとしてきました。その傲慢さが東日本大震災によって、そして今日のパンデミックによって一気に打ち砕かれてしまいました。渡部氏は、私たちへの遺言ともいえるこの著書の中で、神の存在、魂の不滅の問題、死後の世界の存在を私たちが確信することによって、こうした科学万能主義を克服して希望のある未来を見出すことができるのだと語っているように感じます。次回は、アルフレッド・ラッセル・ウオレスやアレクシル・カレルに対する考察に触れて、神の存在、魂の問題、そして死後の世界の問題についてより深めてまいりたいと思います。